国鉄バス資料室
調査短信No.2 国鉄トラック路線の痕跡
(国鉄自動車北山線信濃玉川駅建物ほか)
2001.4.29 「貨物の小部屋」にて公開開始、2002.10.20 「国鉄バス資料室」にて再編公開、2004.10.21表現一部修正、2012.7.14一部修正

あんみつ坊主

1.はじめに
 1930(昭和5)年に開業した国鉄最初の一般運輸営業自動車路線・岡多線(岡崎−多治見間57.1kmほか(*1))は開業時から旅客とともに、手・小荷物、郵便物および貨物の運送を行った。これは、国鉄自動車創業期に提唱された「総合輸送」すなわち「バスは旅客を運ぶのみにあらず、手荷物、小荷物、郵便物および貨物の5客体を運ぶ輸送機関である」という考え方に基づく[1]。以後開業する多くの自動車線でも岡多線と同様の総合輸送が実施された。この時期のバスは車体後部に貨物を積めるようにした旅客・貨物合造車が使用された他、バスの後ろにキャリア(トレーラー)を連結して貨物等を積載した。また、手・小荷物、貨物用のトラックも使用された[2]。
 第二次大戦期に入ると旅客便の運行回数削減や閑散線区の運輸営業廃止が進められると共に、旅客輸送の制限が実施され、一般運輸営業路線でも貨物輸送の比重が高まっていった。
 第二次大戦末期には、戦争遂行のための原材料(鉱物資源・木材など)確保を目的として貨物専業の国鉄自動車線が各地で開業した(*2)[3]。この様な路線は原産地路線と呼ばれ、代用燃料化改造されたトラックを使って山奥から鉱石や材木を運び出した。
 原産地路線はほとんどが人口の少ない地域に開設されたため、後に旅客営業を開始し一般路線として存続している一部の路線を除き、多くは1950年代半ばから1965年頃にかけて廃止となった[4]。また、一般路線の貨物営業も鉄道線の貨物縮小と並行して順次廃止されていった。しかし、中には貨物専業路線のまま1980年代まで残っていたものもあった。その一つが長野県の北山線である。
2.北山線の歴史
 国鉄自動車北山線は蓼科高原の諏訪鉄山で採掘された鉄鉱石を中央本線の茅野駅まで輸送するために1943(昭和18)年6月5日開業した[2]。開業時の運行区間は茅野−糸萱間(12km)および信濃松原−信濃湯川間(2km)であり、同日付けで基地となる茅野自動車区が開設されている。上述のように当時は軍事用原材料輸送のための省営貨物自動車線が相次いで開業しており、北山線はその典型的な事例の一つである。諏訪鉄山は特に重要視されたようで、1944年末には鉄鉱石輸送のための専用鉄道(茅野−花蒔間(*3))[5]も開業したが、程なく終戦を迎えることとなった。
 北山線がいつ頃まで鉄鉱石輸送を続けていたのか不明だが、鉄山専用鉄道が戦後まもなく撤収されているので同じ頃ではなかろうか。戦後は役割が変わったため、旧鉄山地区以外への路線が新設される。まず既存路線を延長する形で信濃湯川−蓼科間および信濃湯川−池の平間が1954(昭和29)年5月27日に開業した。さらに1957年5月1日には茅野市南東部の玉川・泉野地区への路線、矢ヶ崎−泉野間が開業した。以後、1980年代まで大きな変化はない(一部は休止していた模様)。末期の路線図を下に示す。

図1 国鉄自動車北山線路線図
(下諏訪自動車営業所管内路線図 1982.2.1 ;注1)
 <画像をクリックすると拡大図が見られます;以下同じ>
 戦後の北山線は、沿線の農産物(発送)や肥料(到着)など地域の人々の生活を支える物資輸送を細々と行ってきたが、国鉄民営化を前に廃止となった。鉄道による従来型の貨物取扱が大幅に縮小する一方で、民間トラック業者の小口貨物輸送が存在感を高めており、扱い量の少ない鉄道末端の定期トラック路線など真っ先に廃止されても仕方がない状況であった。
3.信濃玉川駅
 現役時代は愛好者にもほとんど知られることのなかった北山線だが、信濃玉川駅の存在により今後注目されることになるかもしれない。廃止から15年以上経過した今(*4)も「国鉄信濃玉川駅」と書かれたコンクリート平屋建ての建物が残っているからである(*5)。場所は茅野市玉川地区、農家が少しばかりかたまっている集落のはずれの交差点の一角だ。
 信濃玉川は北山線として最後に開業した矢ヶ崎−泉野間の途中にある唯一の駅であった。1964年の資料[6]では小荷物と貨物だけを扱う第2種委託駅となっている。駅業務の委託先は併設の農協とみられるが、詳細は不明である。撮影中そばを通りがかった婦人に訊いたところ、建て替える前の古い駅舎は現在位置の道路をはさんだ反対側にあったと教えてくれた。現存する駅舎の半分は農協の売店であったそうだが、数年前に閉鎖して現在は倉庫として使用しているらしい。元々農協の敷地だったようで、現在地・旧駅跡地とも国鉄用地を示す鉄道用地境界標は見あたらなかった。

図2 信濃玉川駅外観

図3 荷扱ホーム側

図4 事務室側

図5 今も残る駅名表記
(撮影はいずれも2000.7.1)
4.その他の駅
 1982年の路線図では信濃玉川の位置を示す円の中に数字の "2" が書かれているが、これは第2種委託駅を表す。信濃玉川の他に信濃山寺、信濃湯川、泉野の3駅が第2種委託駅であったことが路線図からわかる。委託駅種別の表示がない矢ヶ崎、信濃松原などは無人駅とみられるが、貨物駅で無人というのは事実上の休止駅であろう。
 信濃玉川駅撮影の後、信濃山寺駅および泉野駅があったと思われる場所を訪れたが、駅の痕跡は無かった。しかし奇遇にも信濃山寺駅で駅務に従事していた方と会うことができた。その方の話によれば、当時は日本通運(株)が駅業務の受託業者となり、さらに現地の商店などが日本通運の下請けとして実務を行っていたとのことである。信濃山寺駅は国鉄駅であり、かつ日通の事業所(岡谷支店信濃山寺派出所)でもあったわけだ。それを示す駅業務用ゴム印が残されていた。図6および図7はその印影である。

図6 信濃山寺駅ゴム印の印影

図7 日本通運ゴム印の印影
 信濃山寺駅では一般小荷物の他、じゃがいもや花卉などの発送を行っていたようである。末期の運行本数は1日1本で、トラックが来る時刻は午前9時頃だったらしい。
5.まとめ
 愛好者にすらほとんど知られることなく消えていった国鉄貨物自動車北山線についてわずかながら証言を得、また遺物を見いだすことができた。学問的に評価される対象ではないかもしれないが、心躍るような発見があって楽しめればそれでよいと思う。北山線などの貨物自動車線についてはわからないことがまだたくさんあるので、今後も調査を続けたい。
6.謝辞
 本報告は林薫さんのページ「バスと鉄道の専門館」(現在は閉鎖)の中の廃バス跡めぐり<信濃玉川駅>を見て現地を訪問し、作成しました。きっかけを与えてくれた林さんに感謝します。
注釈 
(*1) 1930年12月20日開業、1970年9月29日瀬戸南・瀬戸西・瀬戸北線に改称。
(*2) 石崎線上ノ国−石崎間、多里線生山−伯耆新屋間、奥会津線会津田島−会津西方間など。
(*3) 花蒔は鉄山からの貨物索道の終点で、糸萱地区から約2km西方に位置する。
(*4) 公開開始当時。
(*5) その後、駅名表示は消されてしまったらしい。(著者未確認)
文献
[1] 「国鉄自動車50年史」、日本国有鉄道自動車局(1980)、p. 20
[2] 同書、p. 25
[3] 同書、p. 29
[4] 同書、巻末年表
[5] 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くU」、日本交通公社(1996)、pp. 90-91
[6] 自動車線営業キロ程表、日本国有鉄道自動車局 (1964.4.1現在)、p. 158



 
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