観林庵主人蒙昧録 1-5 
『蛍の光』の私的新解釈 ・・・ 歌詞の意味がわかりますか?
平成29(2017)年8月22日原版公開  平成30年8月12日原版修正
令和元年9月23日移転公開  令和5年9月22日最終更新
 

◎ネットで広まっている唱歌『蛍の光』の歌詞の説明がどうしても受け入れがたいので、私なりの解説を作りました。

 歌える人はもちろん、そうでなくても日本人ならどこかで一度は聴いたことがあるはずです。なのに、誤解や偏見にゆがめられて記憶された挙げ句、今や存在が希薄になりつつある歌・・・それが私の抱く『蛍の光』の印象です。

 いきなりですが、『蛍の光』1番の後半の歌詞は「いつしか年もすぎのとを、あけてぞけさはわかれゆく」です。みなさん、この歌詞の意味はわかりますか。納得して歌えますか。
 少し調べると、「すぎ」は「過ぎ/杉」の掛詞で「いつしか年も過ぎ」と「杉の戸を開けて」の意味があるように書いてある解説がほとんどのようです。しかし、私はこれを素直に受け入れることができませんでした。なんだか現代語訳が行きつ戻りつするようで、卒業という晴れの門出には縁起が悪いようにさえ感じてしまうのです。
 それに、1番の歌詞に「書読む」や「開ける」という動作の主体を表す部分(主語)が見つかりません。多くの人は無条件に「卒業生は」という主語を掲げながら歌っているのではないかと思います。果たしてそれは正しいのでしょうか。

 このたび改めて4番までの歌詞を通して読み直し、歌詞の語義を調べるなどして新鮮な気持ちでじっくりと咀嚼した結果、実は今までの理解が間違っているのではないかと気付いたのです。ある瞬間にふっと全体像が見えてきたという感じでした。
 以下に述べる私の解釈は素人の戯言で、国語学的に正解かどうか怪しいところです。誰でも知っている当たり前のことを曲解した、と馬鹿にされるかもしれません。ですが、少なくとも歌としての美しさを感じ取れる読み方だという自負はあります。

 私の解釈の要点は以下の通りです。
  (1)  1番にある「年」は「(家の)みのり」=「我が子」と解する。
  (2) 一人巣立つ子を見送る母または姉の語りとして読む。
  (3)  1番から4番までを起・承・転・結の物語として一括して捉える。
  (4)  西南戦争、会津戦争のわだかまりを乗り越えて近代国家建設に歩み出した歴史背景を念頭に置く。

 まずは、歌詞[文献1]を一通り提示します。

1 ほたるのひかり、まどのゆき。
  書(ふみ)よむつき日、かさねつつ。
  いつしか年も、すぎのとを、
  あけてぞけさは、わかれゆく。

2 とまるもゆくも、かぎりとて、
  かたみにおもう、ちよろずの、
  こころのはしを、ひとことに、
  さきくとばかり、うたうなり。

3 つくしのきわみ、みちのおく、
  うみやまとおく、へだつとも、
  そのまごころは、へだてなく、
  ひとつにつくせ、くにのため。

4 千島のおくも、おきなわも、
  やしまのうちの、まもりなり。
  いたらんくにに、いさおしく。
  つとめよわがせ、つつがなく。

 

■1番 歌詞には誰が登場するのか

 この歌の冒頭は「ほたるのひかり、まどのゆき」で始まります。大変よく知られている部分ですが、念のため触れておきます。 歌の標題にもなっている「蛍の光」と、続く「窓の雪」は古典漢籍の有名な故事で、灯りをともすための油も買えないほど貧しくとも、蛍を集めた光りや、窓の雪明りで勉学に励み出世したという2人の先人の話です。一括りにして「蛍雪の功」と呼ばれています。
 この部分は単によく勉強したことを述べているという程度の理解で済ましがちですが、私は原典の故事通り素直に読んで、灯火に困窮するほど苦学した状況を思い浮かべます。

 さて、1番の注目点は3行目の「いつしか年も、すぎのとを」です。先に記したように、ここは「いつしか年も過ぎ」と「杉の戸を〜」というように「すぎ」を掛詞とみなし前後に分かれた文として読まれているようですが、これだとどうにも歌詞全体のつながりがぎこちなく、また意味もよくわかりません。
 そこで辞書[文献2]を引いたところ、「年」の字は、「禾(いね)」と「人」が合わさった漢字との説明があり、本来の意味は五穀、稲やその収穫、作柄などと記されていました。時の単位の「年」は、穀物が採れる周期から転じた派生的な意味だったのです。さらに、穀物の実りを表す「稔」という字も、「みのり」の訓と共に、「とし」と読む場合があることを知りました。
 で、この文脈で「五穀のように大切な収穫」あるいは「みのり」とは何かと考えれば、家族の中で大切にされている子供ではないかという仮説が浮かんできます。「とし」を「いとし子」または「我が子」と読み換えることにより、1番後半の語意のつながりに違和感がなくなるはずです。書を読むのも杉の戸を開けるのも我が子「とし」です。
 すなわち『蛍の光』は、「書読む月日」を重ねながら成長し「杉の戸を開けてぞ今朝は別れゆく」我が子を見送る親族のことばとして読むべきではないかと思うのです。
 ただし、あくまでも歌詞表現は「いとし子」「我が子」でなくて「年」とする必要があります。七五調であることはもちろん、前行の「月日」と対になっているからです。この対比構造は1行目の「蛍:雪」で始まり、2行目の「月日」と3行目の「年」が対になって歌の流れに一つの調子を与えています。2番と3番も同様に歌詞の対比を繰り返しますが、4番では構成を変えることにより歌の終わりを実感させる見事な組み立てなのです。
 「杉の戸を開けて」の意味は、倉田喜弘氏[文献3]が示された「学業を成し遂げる」のように理解するのがわかりやすく、寺院の杉戸の連想から「修行の年月が明けて出て行く」とよく似た受け止め方を提示されている意見[文献4]も他にあります。私も「杉戸」は質素な家の戸というより学問所や私塾の板戸のような印象を抱いておりますので、上記の解釈を支持します。
 この部分には時制を表す修飾語が「いつしか」と「けさは」の二つあることも注意が必要です。「いつしか」は「すぎのとをあけて(学業を成し遂げて)」に掛かりますので、今朝の行為は「わかれゆく」だけということになります。「開けて」に係助詞「ぞ」を付けて強調しているのは、「今朝はわかれゆく」の前段階であるように印象づけるためかもしれません。

 このような見方で1番を現代語に直すと、次のようになります。

【1番意訳】
蛍の光や窓の雪を頼りに書物を読むような苦学の月日を重ね、いつしか我が子も学業を成して、今朝、旅立ってゆきます。

 「年もすぎ」の部分は、「すぎ」だけが掛詞なのではなく、「とし」もみのりの「年」と時間の「年」としての両方の意味を持つ掛詞と考えています。現在、一般的に説かれている解釈は「年」をyearの意味にだけ読むことから生じるわけですが、私にはむしろこちらの方が装飾的・副次的な意味のように感じます。
 さらにこの部分は、単に時間の経過を示唆しているだけではなく、いつの間にか元服の年齢を過ぎてしまったという気持ちが隠れているかもしれません。

 『蛍の光』は、曲はスコットランド民謡ですが、東京師範学校の教員だった国学者・稲垣千頴(いながきちかい)が作詞したもので、明治14(1881)年11月付けで発刊された『小學唱歌集初編』に掲載されて広く知られるようになりました。
 現代では、1番だけか、せいぜい2番までしか歌われないため、歌詞の意味が余計にぼやけています。だから、現役の教員までもが、東京師範学校のような官立学校の恵まれた卒業式を描いた歌詞として理解しているようです。確かに作詞者の稲垣千頴は近代的な師範学校の卒業式で歌うことを前提に作ったかもしれませんが、歌詞が描いているのはその学生たち自身の姿でしょうか。
 歌詞をよく読むと、違和感を憶えるほどの貧しい暮らしが見えてなりません。私は上述のごとく子弟を見送る親族のことばと捉えていますので、次のように解釈します。
 そもそもこの歌が作られた明治初期の学生にとって、近代的学校を卒業するという場面自体が斬新で馴染みのないものであったはずです。テレビなどで卒業式の情景を視聴できる現代とは違います。むしろ彼らの意識の中には、古い藩校での学びの方が実感的ではなかったかと想像します。
 加えて、歌というものは物語性が不可欠です。始まったばかりの近代教育に歌の題材を期待する方が困難でしょう。
 『蛍の光』は旧幕藩体制に築かれた教育を基盤にしつつ、明治維新の荒波に翻弄されながらも成長していった一世代前の若者の姿を範として描いているのではないかと推測されるのです。だとすれば、卒業式のような大人数での別れの場面を想定するべきではないと思います。 

 

■2番 別れの場面

 2番の理解の前に、1番で想定した「親族」をもう少し限定しておきましょう。
 勝手ながら少し先走って最後まで歌詞を通読すると、4番に「わがせ」という言葉がでてきます。漢字では「我が背」と書き、女性が夫、兄弟、恋人など男性を親しんで言う表現とされます。親族ならば、語っている「我」は母親もしくは姉ということになろうかと思います。
 一方、「背」は夫もしくは恋人とする場合が一般的のようです。しかし、それでは「とし」を我が子とした1番との整合がとれません。
 「とし」の理解が正しいとするならば、歌の最後に母が息子に、あるいは姉が弟に呼びかけるとき、一人前の男として「我が背」という言葉を使ったと解釈すべきだろうと私は考えます。

 それを踏まえて2番に戻ります。2番は起承転結の「承」です。
 「かたみに」は漢字で「互に」と書き「たがいに」の意味、「ちよろず」は「千萬」すなわち「たくさん、数限りなく」の意味、「さきく」が「幸く」で「無事に」という意味であることを知れば、2行目以下は難しい文ではありません。
 問題は1行目です。「とまるもゆくも」を「留まる者と去り行く者」つまり「在校生と卒業生」と解釈する場合がほとんどのようです。上述の通りの登場人物を仮定するなら、「残る母(姉)も行く子(弟)も」になります。確かにそれでも意味は通じるでしょう。
 しかし、以下のような読み方はできないでしょうか。
 2番は、戸を開けて玄関の外へ出てきた直後の場面とみなすのです。もちろん見送りの母(姉)も寄り添っています。その二人が別れ難く、少し歩いては言葉を交わし、また少し歩いては立ち止まり、を繰り返した後、母(姉)が潔く「名残惜しいですが、これを限りとしましょう」と告げる、そんな情景を「止まるも行くも限りとて」と表しているともとれるのです。これなら、「こころのはしを、ひとことに、さきくとばかり、うたうなり。」への時間経過は自然な感じです。
 この見方をとって、玄関の外で別れを惜しむ母子または姉弟を思い浮かべつつ、2番を現代語に直してみましょう。

【2番意訳】
(名残惜しく)止まったり歩いたりしましたがこれを限りということで、お互いに思うこと千万ある心の内をひとこと「無事で」とだけ伝えます。

 

■3番 母(姉)の訓

 3番は一転して、訓示のような内容です。2番で「ひとことに」と言って終わったように理解すると、さらに続くのは何故かと疑問に思うかもしれません。しかし、一言に集約したのは私的な思いに関してです。他に伝えるべきもっと大切なことがあるからこそ、私情を一言で切り上げたとも推測できます。もっと大切なこと、それは国に仕える者の心構えです。
 「つくしのきわみ」は「筑紫の極み」で九州の端、「みちのおく」は「陸の奥」で東北地方を指しています。確かに「海山遠く隔」てていますね。そして、次の行は、「そのまごころは、へだてなく」と続いています。
 この部分を国土の広がりや地理的な隔てを言っていると理解するのは間違っていません。しかし、ただ遠いだけで、あるいは多少のことばや習慣の違いだけで「まごころ」というのはやや大げさだと思いませんか。
 実は、まごころを必要とする事情があったのだと考えています。それは東北地方の会津戦争(明治元年)(あるいはその直前の戦いも含めた東北戦争)と九州の西南戦争(明治10年)です。
 明治維新の前後には、一部の士族たちと政府との対立が各地で起こりました。二つの争いはその代表格です。『蛍の光』が公表されたのは明治14年のことですから、会津戦争から13年、西南戦争からは4年しか経っていません。
 明治39(1906)年に発表された夏目漱石の『坊ちゃん』[文献5]でも、主人公の坊ちゃんが同僚の教師である山嵐に向かって「会津っぽか、強情なわけだ。」というセリフを発しているくらいですから、直後のわだかまりは相当に強かった可能性があります。「海山遠く」はそうした心の隔てを指しているともとれます。だからこそ「まごころ」の必要性を説いたのではないしょうか。

【3番意訳】
筑紫の端やみちのくは、海山遠く隔てていますが(西南戦争や会津戦争のわだかまりがあって心が隔てられるかもしれませんが)、あなたは分け隔てなく真心で接し、一つになって国のために尽くして下さい。

 かなり視野が広く、かつ知識の豊富な人物でなければ、このように高尚な志は説けないでしょう。それなりに地位の高い武家の女性ならびにその子息(または弟)を想像してしまいます。歌詞が七五調の格調高い韻文であることも、相当な教養の持ち主という見方を後押しします。差別をするわけではないですが、寺子屋教育の「読み書きそろばん」の水準ではありません。

 では、なぜ1番で苦学する姿や貧しい家を連想させる「杉の戸」が歌われているのでしょう。
 この歌が作られた明治10年代前半は、未だ明治維新の混乱が尾を引いている時代です。新政府の官職に就くことができた一部の武士はともかく、収入(禄)が無くなって生活に窮した武士も多かったはずです。「我(=母・姉)」と「とし(=子・弟)」は、そうした没落した武士の家族とみなせば辻褄が合います。
 だから私は、急激な社会変革で地位を失い困窮しつつも、武家の良い伝統を保って誇り高く生きてきた母子(姉弟)を想定したくなるのです。さらに想像を膨らませると、もしかしたら家長の父を亡くして母が一人で(あるいは両親とも亡くして姉が一人で)年端も行かぬ息子(弟)の面倒を見てきたのかとも思えます。
 上では記しませんでしたが、「杉の戸」にはもう一つ別の意味もあるのです。それは女郎屋の杉の板戸[文献6]です。さらに転じて下等な遊女を表すとの説明もみられます。遊女ほどの卑しい身分にやつしてまで息子(弟)を育て上げたという暗喩が、当時の人々には通じた可能性もあります。考えすぎでしょうか。
 その子が、苦学の甲斐あって、教員など何らかの公職に就くことができたのでしょう。歌詞の中で一貫している晴れがましさは、再び世の役に立てることになった喜びが土台であると私は理解しています。 

 

■4番 至らん国

 結びの4番も訓示的な内容が続きます。「やしまのうち」は「八洲の内」で「日本の国内」という意味です。「やしま」という古い呼び名を使っているのは、伝統の尊重であるとともに、1行目の「千島(ちしま)」と対をなすからでしょう。
 千島は明治8(1875)年の千島・樺太交換条約により、また沖縄は明治12(1879)年の首里城明け渡し(沖縄県設置)により正式に日本の領土となりました。『蛍の光』が公表される数年前のことです。
 つまり当時の国境について言っているのですが、領土が広がったと浮かれているのではありません。むしろ守りの責任が生じたことで、気を引き締めよと注意しているように感じます。
 次の「いたらんくに」は「至らん国」ですが、ここは解釈が分かれるところです。「至る」とはどういうことでしょうか。
 「至る」は空間的・時間的な到達を意味するのが一般的ですから、先に触れている新領土も含めて「赴任する」という意味も考えられます。あるいは、「どこにでも」という意味の「至る所」と同じとしてもよいでしょう。推量を表す「ん(む)」が付いていますので、「どの地域へ行こうとも」という訳もあり得ます。しかし、そうすると「国」は地方を表すことになって、3番の新国家・日本全体を表す「国」と違う意味になってしまいます。
 ここはもう少し詩的に捉え、「至り」が接頭語として「気がきいていること」「粋なこと」「上品なこと」という意味で使われる事例を考慮し、そのようになることを意味する自動詞「至る」と考えても良いのではないでしょうか。「品格が備わるであろう」という表現で置き換えられるかもしれません。訳は「(素晴らしい姿に)至るであろう」としておきます。
 「いさおしく」は「勲しく」で「勇ましく」「雄々しく」という意味もありますが、続く「つとめよ」と絡めて「勤め励むようにせよ」という意味の方が合うように私は思います。
 そして最後に「わがせ」と呼びかけた後、「つつがなく」で母または姉の語りは終わります。「恙なく」の「恙」は災難、わずらい、病いなどの意味であり、「わざわいがないように」と祈る言葉です。
 2番で個人的な思いは伝え終えたはずですが、やはり最後にもうひとこと思いのこもった言葉「つつがなく」を付け加えているのです。訓示の補足という形にもとれますので、一応2番と矛盾せず体面を保っていますが、これこそ愛情からにじみ出た一言に違いありません。
 「つつがなく」は未来につながります。本心では「つつがなく勤めて帰ってくるのを待っています」と言いたいのでしょう。けれど、この女性は、そのようなことを口に出さないはずです。湧き上がる思いを押さえつつ、凜として見送る姿が目に浮かびます。彼女の最後の一言が「つつがなく」なのです。

【4番意訳】
千島の奥も沖縄も、(この)日本の国が守るべき範囲です。(素晴らしい姿に)至るであろうわが国に貢献するよう勤めて下さい。愛しい人よ、つつがなく。

 最後が一番肝心です。日本人の気概と慈しみに満ちた素晴らしいこの歌は、4番まで通して歌わなければ意味を成しません。最後まで歌わずして『蛍の光』を歌ったと言えましょうか。
 ちなみに、この歌詞をもって軍国的と考える人がいたら、勘違いも甚だしいと私は思います。「まもる」は軍隊による国防とは限りません。軍人に限らず、医師や教師、文官(行政公務員)などにも全く同じ心構えが求められるからです。それを国家主義的などと言って忌避していたら、現代の国家公務員は国に尽くさなくてよいことになってしまいます。

 

 あらためて、『蛍の光』の歌詞を記します。今度は適宜漢字を使っています。

1 蛍の光、窓の雪。
  書読む月日、重ねつつ。
  何時しか年も、すぎの戸を、
  開けてぞ今朝は、別れ行く。

2 止まるも行くも、限りとて、
  互(かたみ)に思ふ、千萬(ちよろず)の、
  心の端(はし)を、一言に、
  幸(さき)くと許り、歌うなり。

3 筑紫の極み、陸の奥、
  海山遠く、隔つとも、
  その真心は、隔て無く、
  一つに尽くせ、国のため。

4 千島の奥も、沖繩も、
  八洲(やしま)の内の、護りなり。
  至らん国に、勲(いさお)しく。
  努めよ我が背、恙(つつが)無く。

【意訳】

1 蛍の光や窓の雪を頼りに書物を読むような苦学の月日を重ね、いつしか我が家の子も学業を成して、今朝、旅立ってゆきます。

2 名残惜しく止まったり歩いたりしましたがこれを限りということで、お互いに思うこと千万ある心の内をひとこと「無事で」とだけ伝えます。

3 筑紫の端やみちのくは、海山遠く隔てていますが(西南戦争や会津戦争のわだかまりがあって心が隔てられるかもしれませんが)、あなたは分け隔てなく真心で接し、一つになって国のために尽くして下さい。

4 千島の奥も沖縄も、(この)日本の国が守るべき範囲です。(素晴らしい姿に)至るであろうわが国に貢献するよう勤めて下さい。愛しい人よ、つつがなく。

 繰り返しますが、私が読み解いた『蛍の光』の世界は、巣立つ子と見送る母もしくは姉の別れの情景なのです。いかがでしょうか。このような『蛍の光』の解釈があっても良いのはないでしょうか。
 


 この度、『蛍の光』の歌詞をじっくりと読み込みまして、読むほどに味わい深くなる素敵な歌詞だと再認識しました。また、大和言葉の美しさに心の底から感じ入りました。『蛍の光』などしょせん忠君愛国のキャンペーンソングにすぎない、と批判する向きもあろうかと予想しますけれど、それを承知でも十分感動しています。
 私は政治思想的なことを主張したいわけではありません。先人の作った歌が内包している美意識を私なりに見いだすことができたので、その喜びを純粋に伝えたいだけなのです。
 『蛍の光』は、作詞家の意向以外にも文部省の意図や社会情勢によって何度か詞が書き換えられたと聞いています。本稿で示した解釈は、あくまで明治14年に公表された版での歌詞に限ります。歌作りに関与した人々の狙いがどうあれ、結果としてこのように読めるというだけです。4番前半の歌詞の調子は、明治14年版が最も整っていると感じます。

 素人の珍妙な解釈かもしれませんが、拙稿が『蛍の光』を読み解くのにわずかでも参考となれば望外の喜びです。
 万一、すでに同様の解釈が説かれているならば、ひとえに私の不勉強のゆえであり、恥じ入るばかりです。ただ、それがネットで調べても出てこず、世間に知られていないとしたら大きな損失と言えましょう。

平成29(2017)年8月22日原版公開 

 

[文献]
1) 堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』、岩波書店[岩波文庫](S33)、pp. 16-17
2)『国語大辞典』、小学館(S56)
3) 榛原守一『小さな資料室』/資料254 唱歌「蛍の光」「あおげば尊し」
[原典は新日本古典文学大系 明治編 11『教科書 啓蒙文集』脚注(倉田喜弘)、岩波書店、(H18)]
http://www.geocities.jp/sybrma/254hotaru.aogebatoutoshi.html (H29.8.22確認)
4) 藤森平司『臥竜塾』
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2012/03/戸.html (H29.8.22確認)
5) 夏目漱石『坊ちゃん』、新潮社[新潮文庫](S25)、p. 94
6) 『日本国語大辞典』、小学館(S55)

(蒙昧録1-5 終わり)

 
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