観林庵主人蒙昧録 1-4 
「とびら」と聞いて嬉しくなった話・・・カタカナ語氾濫のおもてなし日本
令和元(2019)年9月19日作成  令和3年6月29日最終更新
 

 今日、地下鉄の車内で「扉が閉まります」という放送を聞いて嬉しくなりました。車掌が「ドア」でなく、「扉」という言葉を使ってくれたからです。私がそんな些細なことに喜びを感じるほど、今の日本には西欧語もどきのカタカナ語や外国語そのものが溢れています。

 「コンプライアンス」やら「アクセシビリティ」やらの新概念、あるいは情報通信関連の新技術用語は、翻訳を試みる間も機運もないまま押し寄せる現状から、外国語直輸入もある程度やむを得ないかと思います。しかし、かつては日本語(和語、漢語)で定着していたはずの日常表現までも、スペース、エリア、チャンス、メンバー、ショップ、ライト、リアル、カラフルなどなど多彩なカタカナ語の花盛りなのが気になります。演歌歌手の舞台がアーティストのライブステージと呼ばれ、相撲の観覧券もチケットと化しては、興が醒めること甚だしいです。頼みの日本放送協会ですら、「ひな祭りイベントのオープニングセレモニーでテープカットが行われました。」などと報道し、不快感を倍増させてくれます。大規模商業施設の館内に並ぶ店舗の看板に至ってはもはやカタカナではなく、英語、フランス語やイタリア語っぽいものまで含めてラテン文字表記が多数派です。店舗案内図を前にした私は、怒り心頭、怒髪天を衝かんばかりになります。

 日本語のありようについて如何に考えているのか、と詰問したところで、期待するような答えは帰って来ないでしょう。むしろ下手に理屈っぽい方々を相手に論争するよりも、感性の優れた若者の方に期待してしまいます。今、一周回って日本語がカッコいいらしいのです。

 部活動の大会でも有ったのか、背中にひらがなで何やら書いたお揃いの衣装を着て、駅で高校生が群れていたりします。服も帽子も、身につけるものに書いてあるのは英字でなければ恥ずかしいと思い込まされていた私たち中高年世代とはずいぶんと違います。「ヤバい」と「カワイイ」以外に形容詞が出てこなくとも、それらは曲がりなりにも日本語です。褒めてあげたくなります。

 日本語破壊の主犯がどんな階層か特定しませんけれど、誰であれそろそろ卑屈な英語(西欧語)崇拝を見直した方が良いのではないでしょうか。理性偏重の公的組織が「インバウンド」などと称する海外からの観光客は、きっと「和」のたたずまいを期待しているはずです。英語始め主要各言語での正しい案内・説明はもちろん必要ですが、国内で端正な日本語を保つことも国際化対応の一つとして重要だと、私は考えています。

(蒙昧録1-4 終わり)

  
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