観林庵写真帖 11 
令和2(2020)年8月15日作成  令和2年8月17日最終更新
 

令和に見つけた「陸軍省」
京都府宇治市  令和元(2019)年12月29日

 昨年末、宇治市の黄檗山萬福寺を参拝したとき、近くで「陸軍省」と刻まれた石標を見つけました。場所は萬福寺境内南東部にある駐車場の入口付近で、黄檗公園との敷地の境目です。位置からみて、用地境界を示す標識と思われます。
 今どき「陸軍省」の文字を見つめていたら危ない人と思われるかな、と少し気になりましたが、懐古趣味人としては興奮を抑えきれず、そばに駆け寄って観察した後、写真を撮って来ました。

 黄檗公園一帯は戦争終結まで帝国陸軍の火薬庫が置かれていました。黄檗駅の西に火薬製造所があり、そこで製造された火薬を保管していたようです。現在、駅西側の火薬製造所の跡地は、自衛隊駐屯地と京大宇治キャンパスになっています。
 火薬庫ですから当時は陸軍の管理下であり、萬福寺境内との境界に「陸軍省」の標識が建植されているというのは納得できました。

 よくぞ残しておいてくれた、と最初は喜びましたが、じっくり見ているとこの石標、どうも綺麗すぎるように思えるのです。正面の文字はなんだか計算機文字の書体のようですし、刻字も機械彫りではないかという気がします。
 石標が面している道路と側溝はごく最近整備された感じです。戦前はもっと道路が狭く、仮に昔から石標があったとしても、位置がずれているのではと想像します。復元品なのか、あるいはもしかしたら全くの新造品かもしれません。
 仮に復元あるいは新造だとしたら、どのような意図があるのでしょう。

 石標のある場所から道路を挟んだ東側には、火薬庫の遺構を説明する「宇治市平和都市推進協議会」名義の案内板が設置されています。説明文の最後には、「二度と戦争の過ちを繰り返さない決意をもって、ここに火薬庫跡の銘板を設置するものです。」と書かれています。ひょっとして、石標は「危険な火薬庫→危険な陸軍省→過った戦争」という印象を醸成するための小道具なのか、との疑念が脳裏をかすめました。いえ、説明文の大意には賛同なのですよ。

 確かに、住宅地の真ん中に火薬庫など造られては危険だし不安ですよね。しかし、それは立地の問題であって、火薬庫はどこかに必要なのです。残っている立派な土塁は、どちらかというと技術管理のしっかりした良い手本とも言え、着眼点によっては正の歴史評価すら得られるはずです。
 日本の戦争遂行に幾多の無謀さがあったことは否めませんが、旧軍の施設だからといって全て「過ち」に結びつける説明には少々無理を感じます。

 上記の懸念が私の誤解に基づく杞憂であって、この「陸軍省」石標が歴史施設への正確な理解を助けるための設置物(本物なら保存物)であればよいのですが、真相はどちらでしょうか。

(写真帖11 終わり)

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