国鉄バス資料室
奥能登線乗車記(乗降記録付き)

木ノ浦(8:00)→狼煙→寺家→珠洲→能登飯田→南町(→北方)
平成14(2002)年3月22日

乗降人員記録表(木ノ浦→北方)

 国民宿舎から坂を登り木ノ浦の停留所にたどり着くと、すでにバスは到着していた。車両は能登飯田派出所の537-4471。国鉄時代の昭和59年に導入された車である。塩気を含んだ風に晒されているためだろうか、外装には腐食が目立つ。
 停車中のバスを撮影した後、中扉より乗車したら、運転士氏が声をかけてきた。昨夕の東山中経由木ノ浦行きに乗務していた人だった。昨日の便でも最前列の席で怪しげな気配を漂わせていたうえに、たった今バスの写真を撮影したので完全に素性がばれている。開き直ってまた左側最前列に座る。発車までの短い時間に、国鉄時代の研修を名古屋で受けたこと、多客期に臨時便を出すため金沢や近江今津から応援の運転士が来たことなどを話してくれた。
 座席の表地は国鉄バスで標準的に採用されていた紺色のモケットである。地味ながら質感の良い品だ。運転士氏の話とともに、国鉄時代を思い出させるこの感触が妙に嬉しい。
 ほどなく発車時刻となって、定刻8時ちょうど、道楽者を1人乗せただけのバスは、灰色の海を左手に見下ろしながら、対向車の来ない道路を走り始めた。
 一つめの能登折戸は小学校のある集落で、東山中線の分岐点だが、乗車客なし。確認するようにゆっくりと通過して海岸端の道路を走り続ける。
 最初の乗客はその次の能登洲崎で待っていた。小柄ながらたくましそうな老人だ。漁師だろうか。元気そうに入口の段を上がり、私の近くに座る。そして、あろうことか私になにやら話しかけてきた。が、うまく聞き取れない。申し訳ないけれど、笑って誤魔化す。バスはゆるい坂を登っている。
 能登横山でも1人乗車。このあたりは海との間に小さな丘陵があり、その陰に隠れるように人家が点在している。山裾には小さな水田が並ぶ。エンジン音の向こう側を、静かな景色がただ一様に後ろに流れていく。
 しばらく走ると正面に漁村が見えてくる。能登半島の北東端に位置する集落・狼煙(のろし)である。集落のはずれにある禄剛崎からは外浦の雄大な景色が楽しめることから、観光シーズンに1日1便運転される定期観光バスの下車観光地になっている。
 今からふた昔ほど前のことだが、多数の観光客が奥能登に足を運んだ時期があった。きっかけは石川さゆりが歌った「能登半島」(昭和52年5月発売)のヒットだといわれている。当時、奥能登めぐり定期観光バス「おくのと号」は国鉄と北陸鉄道の共同運行で、多客期には1日何便も設定されていたが、それがすべて満員になったということだ。定期観光の他、合間を走る普通便も周遊券で利用できたので、かなりの数の観光客がバスに乗ってここ狼煙を訪れたことと思う。
 しかし近年、奥能登を訪れる観光客は減少の一途をたどっている。「おくのと号」は次第に減便され、数年前には西日本ジェイアールバスが定期観光の運行を止めた。観光客の選択肢は一層狭められた。

 一方で人口の減少と自家用車の普及は続く。ローカルバスの利用者が増える要因は見つからない。過疎地域の交通弱者のためだけに運行するのでは収益が上げられないから、民営化されたジェイアールバス各社は地方路線から撤退し、採算の取りやすい都市間高速バスに経営資源を集中する。その結果、50年以上走り続けてきたつばめマークの路線バスが奥能登から消えることになってしまった。
 民営化されたのだから、営利企業としてのこの判断は当然である。だが、国鉄をそんな営利企業にしてしまったことが本当に成功だったと言えるのか。今頃になって国鉄改革の余波に見舞われ、国に見捨てられることになった人々の存在を都会の住人たちはほとんど知らないはずだ。

 奥能登線廃止後の代替輸送については地元自治体を中心に調整がなされたのだろう。一応、別のバス会社が引き継ぐということだけはバス停などに掲示されていた。しかし、昨日車内で聞いた話によると、引継ぎ後の運転時刻や運賃について未だに知らされていないとのことだった。廃止は10日後に迫っている。話をするお年寄りたちは不安そうであった。4月から今と大差のない時刻表で運行されることを祈るのみである。

 よそ者の私がつまらぬことを考えている間もバスは走る。集落の中に入って減速したバスの前方に狼煙の停留所標識が見えた。そこに観光客の姿はもちろん無く、質素な服装の初老の男性が1人立っているだけだった。

 バスは狼煙から南に向きを変え、葭ヶ浦、寺家上野と能登半島先端部の海岸をたどりつつわずかな乗客を拾っていく。寺家(じけ)地区は比較的大きな集落で、集落中心の寺家で3人、次の寺家川上で4人の乗車がある。能登粟津で1名乗車した後、森越と能登宇治は通過したが、引砂から高波(こうなみ)、能登伏見、小泊、小泊港と連続して乗車があり、乗客合計が20人を越えた。通学時間帯を過ぎてこれだけ乗っていれば立派なものだ。

 小泊港まで乗客が増える一方だったが、次の雲津(もづ)で普段着姿のおばさんが1人降りた。さらにその先、鉢ヶ崎で1名、旭町でまた1名下車した。旭町で降りたのは会社勤めのような雰囲気の女性だった。近くに工場のような建物があったから、そこに通っているのかもしれない。視野の中で人工物の占める割合が増えてきた。
 下車客が続いたのでこれで乗車人員のピークは過ぎたかと思ったら、蛸島本町で2名乗車の後、本蛸島で7名、蛸島駅前で5名の乗車があった。蛸島からはのと鉄道と並行するのだが、思いの外バスの利用が多い。乗車人員が最大だったのは蛸島駅前から正院大町までの区間であった。

 空は相変わらず陰鬱な雲に覆われている。が、木ノ浦を出てしばらくの演歌の世界を漂っているが如き気分から、次第に現実空間に引き戻されつつあると感じるようになった。車内がにぎやかになっているからでもあるけれど、なにより車窓を流れる景色のリズムが狼煙や寺家あたりと違うのである。自然のゆらぎの中で現代的無節操が濃度を高めてきている、とでも言おうか。散らばる空き地によってそれが際立ったところが珠洲駅だった。
 下車したのは13名。駅の中に入っていく人はほとんどいない。地図を見ると駅の向こう側に病院が在るようだし、図書館も遠くないので、そのあたりへ向かうのだろうと推測する。

 少し身軽になったバスは珠洲駅前の広場をくるりと回り、町中へ向かう。次の吾妻町で男性が1人下車。そしてほどなく珠洲市の中心・能登飯田に着く。狭いバス通りの両側には昔ながらの秩序で商店や銀行が並んでいる。中途半端に開発の手が入った珠洲駅周辺とは違い、落ち着きと、少しばかりの郷愁を感じる。
 国鉄民営化後、無人化され取り壊されてしまったが、それまで飯田の今町交叉点の一角には二階建ての立派な駅舎が建っていたらしい。国鉄バス能登飯田駅の周りに市街地が発達した、と言ってもよさそうな位置である。この「まち」に馴染んでいたであろう能登飯田駅を廃止間近のバスの中で思い浮かべる。
 私が窓外を眺めている間、続々と乗客たちが降りてゆく。結局、乗ってきた乗客のほとんどがここで降りてしまった。小さいながらも都市機能があって、近在に住む人たちがこの街に依存していることを実感する。国鉄バス奥能登線はそれを支えてきたのだ。

 次の南町は町並みの続きで、動き出したと思ったらすぐ着いた。残っていた2名の乗客はここで降りるようだ。私も降りることにしよう。終点の北方まではあと1区間あるが、どうせこの後宇出津行きで通る。地元の人と同じバス停で降りる一瞬の仲間意識の方が完乗より価値があるという気がした。

(文責: あんみつ坊主)


 
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