木ノ浦(8:00)→狼煙→寺家→珠洲→能登飯田→南町(→北方)
平成14(2002)年3月22日
今からふた昔ほど前のことだが、多数の観光客が奥能登に足を運んだ時期があった。きっかけは石川さゆりが歌った「能登半島」(昭和52年5月発売)のヒットだといわれている。当時、奥能登めぐり定期観光バス「おくのと号」は国鉄と北陸鉄道の共同運行で、多客期には1日何便も設定されていたが、それがすべて満員になったということだ。定期観光の他、合間を走る普通便も周遊券で利用できたので、かなりの数の観光客がバスに乗ってここ狼煙を訪れたことと思う。
しかし近年、奥能登を訪れる観光客は減少の一途をたどっている。「おくのと号」は次第に減便され、数年前には西日本ジェイアールバスが定期観光の運行を止めた。観光客の選択肢は一層狭められた。 一方で人口の減少と自家用車の普及は続く。ローカルバスの利用者が増える要因は見つからない。過疎地域の交通弱者のためだけに運行するのでは収益が上げられないから、民営化されたジェイアールバス各社は地方路線から撤退し、採算の取りやすい都市間高速バスに経営資源を集中する。その結果、50年以上走り続けてきたつばめマークの路線バスが奥能登から消えることになってしまった。
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奥能登線廃止後の代替輸送については地元自治体を中心に調整がなされたのだろう。一応、別のバス会社が引き継ぐということだけはバス停などに掲示されていた。しかし、昨日車内で聞いた話によると、引継ぎ後の運転時刻や運賃について未だに知らされていないとのことだった。廃止は10日後に迫っている。話をするお年寄りたちは不安そうであった。4月から今と大差のない時刻表で運行されることを祈るのみである。
よそ者の私がつまらぬことを考えている間もバスは走る。集落の中に入って減速したバスの前方に狼煙の停留所標識が見えた。そこに観光客の姿はもちろん無く、質素な服装の初老の男性が1人立っているだけだった。 バスは狼煙から南に向きを変え、葭ヶ浦、寺家上野と能登半島先端部の海岸をたどりつつわずかな乗客を拾っていく。寺家(じけ)地区は比較的大きな集落で、集落中心の寺家で3人、次の寺家川上で4人の乗車がある。能登粟津で1名乗車した後、森越と能登宇治は通過したが、引砂から高波(こうなみ)、能登伏見、小泊、小泊港と連続して乗車があり、乗客合計が20人を越えた。通学時間帯を過ぎてこれだけ乗っていれば立派なものだ。 |
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