観林庵主人蒙昧録 1-1 
堂号を「観林庵」と名付けたいきさつ ・・・ 伸び過ぎた庭木の名残
令和元(2019)年9月23日作成  令和元年9月30日最終更新
 

 表紙にも書いたとおり、築40年ほどになる古い集合住宅の一室に居を構えております。室内は部分的に改修してありますが、あちらこちらに老朽化に伴う不具合が見られ、対処を迫られたり、あきらめて放置したりといった状況です。

 普段は仕事をしておりますし、家人のご機嫌取りも必要です。他にも様々な社会的しがらみに振り回され、何かと気苦労が絶えません。さりとて、憧れの世捨て人にでもなるかというと、そこに踏み切る潔さも持ち合わせていないのです。

 そんな日常の中で気分だけの仮想遁世をしようと思いつき、まずは雰囲気作りのため、居宅に浮世離れした堂号を付けることにしました。
 古来より世捨て人の庵というものは簡素貧相にして朽ち果てんばかりが相場です。この点で我が家は仮想どころか現実に条件を満たしております。堂号を持つことで、庵を結ぶ気分も盛り上がりそうです。仮想の庵に籠もって時空を超越する妄想に耽っても、誰かにとがめられる謂われはありません。

 さて、実際に名を定めるとなると、折角なら風雅な美しい名前をなどと欲が出てくるのが悲しいところです。自分で自分を苦しめながら、無い知恵を絞りました。

 我が集合住宅の敷地の南端には新築分譲の時に植えたらしい樹木が立ち並んでいて、40年の歳月がそれらを立派に成長させ、伸び過ぎというくらいの状態になっています。3階にある私の部屋ですら、ベランダからの視界を遮る高さです。居間から窓越しに南を望むと、木々の緑がその向こうの戸建て住宅群を隠してくれるため、さながら林に囲まれた別荘に居るような感覚を味わえます。この景観が唯一の取り得と断じても過言ではないでしょう。数日の思案を経て堂号はこれしかないと得心し、少々安直ながら、「林を観る庵」で「観林庵」と決めました。

 林はもちろん木々の並びを意味しますが、他に禅宗寺院のことを「禅林」と呼んだりしますし、書物がたくさんあるところや書店を指す「書林」、あるいは文芸家の仲間を指す「芸林」など、高尚な人やものの集まる様を「林」の字で表します。こうした用例を踏まえ、「観林庵」には「樹林を観(み)ながら書林(蔵書)の知を観(かん)ずる」と幾分キザな説明も用意しました。

 我ながら秀逸な命名だと満足し、しばらくは良い気分に浸っておりました。ところがそれから数ヶ月経った春先のある日、目の前に並ぶ木々の頂部がばっさりと切り落とされてしまったのです。
 伸び過ぎ状態の樹木は、当然ながら垂直上方だけでなく横方向へも枝を広げていました。敷地の外縁部に植えられた庭木は、枝先が公道へ大きくせり出し、秋には大量の葉を道路へ落とします。その落ち葉が、さほど広くない道路の向こうへ舞い散り、さらに隣接する戸建ての住宅地へ侵入して、ご近所から苦情が寄せられるまでになっていました。

 住宅の管理組合では真摯に検討して、長年伸びるに任せていた庭木を大胆に枝打ちすると決定しました。その結果、ベランダ前に並んでいた庭木は、かなりの部分が手摺りより下側に収まり、向こう側がすっきりと見渡せる状態になりました。堂号「観林庵」の由来となった「林」は命名わずか数ヶ月にして視野から消えてしまったというわけです。 

 残念なことですけれど、堂号はまだ公表していなかったし、景色の変化以外に特段の差し障りはありません。落ち葉が減って近隣にご迷惑がかからなくなれば、全体としては良かったねという話です。元々、私の精神的満足が目的の命名ですから、「良かった探し」をして気持ちを転換すれば済むことです。幸いにして、喜びはすぐに見つかりました。
 樹林の頂部がなくなって視界がすっきりしたおかげで、坂の下に広がる住宅地が望めるようになりました。黄昏時から夜にかけての街灯りはそれなりにきれいです。傾斜地に建っている利点が現れたと思えば、枝打ちも悪いものではありません。

 堂号「観林庵」は、変えずにそのまま使うことにしました。視野を少し下に向ければ庭木が並んでいるのは見えるし、葉が擦れ合う音も間近に聞こえるので、許容範囲でしょう。

 この夏、切り落とした幹の先端から新芽が伸びていることに気付きました。また何年かしたら観林庵命名の由来となった元の姿に戻るかもしれません。樹林に囲まれた以前のような景色が良いか、夜景が美しい今の景色が良いか、これは結構贅沢な悩みだと思っています。

(蒙昧録1-1 終わり)



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